何より「音楽」が中心にされるリトミック活動において、音を取り扱わない活動はない(終止音が鳴り止まない、ということではない。「無音」も要素の一つである)。では、リトミックで取り扱われる音楽とは、どんなものだろうか?

リトミック、というよりそれを含む全体である「ダルクローズ教育」とは、創始者のエミール・ジャック=ダルクローズが考案した、音楽を教えるために音楽を用いて身体感覚から学ぶ方法である。その実践が行われていた当時は今から約100年前。ビートルズはもちろん誕生しておらず、今で言う「クラシック音楽」がヒットチャートを賑わしていた頃なので(そんなものはない)、ダルクローズ教育では、厳格な「機能和声」則った秩序正しい音楽が教えられてきた。

ダルクローズ教育におけるリトミックでは、今もなお当時の意志を継いで音楽を学ぶ方法が教えられている。しかし、当時の音楽観そのままの指導法を、果たして現代の音楽事情に照らし合わせられるのだろうか?ダルクローズ教育では、サン・ラの音楽をどのように解釈するのだろうか?

なんて極端な物言いは屁理屈であり野暮の極みであるが、リトミックではクラシック音楽の様式を「ルール」として扱っている以上どうしても「枠」が作られてしまう。その「枠」の中を、どれだけ柔軟に捉えて相手に教えられるか?枠の広さが指導者の力量に繋がるように思う。子どもを教える際に、狭い枠内(力量の低さ)に押し込めようとすると「お勉強」になり音楽なんて楽しいものではなくなってしまう。

音楽を扱うリトミック指導者(に限らないが)にとって、枠の柔軟さ、幅広い音楽性は必要不可欠だろう。そのために、「音楽」そのものの解釈を再確認する必要がある。

 

「インプロヴィゼーション 即興演奏の彼方へ」
デレク・ベイリー:著 竹田賢一 木幡和枝 斉藤栄一:訳 工作舎

ギタリストであり即興演奏家であるデレク・ベイリーによって纏められた本書には、音楽を「演奏」ではなく「行為」として捉え、「即興演奏」が音楽にもたらすこと、あるべきことを他の演奏家にインタビューから明らかにしていく。

理解されがたい「即興」という行為だが、本書によって概念と方法で説明されると「音楽」といった限定的な枠にも表現性の自由が広がっている事が伺い知れる。それは、恐らく大多数の人が常識としている「音楽」からは固定概念が邪魔をして発想出来ない内容だろう。

「即興演奏の音楽性についてはっきり言えることは、それが何かというアイデンティティの精緻な規定が欠如しているということだ」

即興演奏という手続きをとる事で、音楽を知識や技術を持った限られた人による「再現するためだけの手法」から「誰でも扱える手法」へと変えられる。というより、元々音楽はそうあるべきではないだろうか?

音楽は、誰もが楽しめる。正確なリズムや正しい指使い、といった技術は楽しむために必要なものなのか?演奏家を育てるのではなく、子どもに音楽を楽しませるには、まず原点がどうあるべきか?本書は、音楽を「遊ぶ」ための重要な指摘が含まれているように思う。